大人ぶって
Date2026/06/02最近、朝活を始めました。といっても昨日と今日だけだけど。
夜に活動が偏っていたのは、自分自身の生活リズムもあるけれど、誰かと一緒に過ごすことを大事にしていたからこそだったのかなとも思った。
とにかく夜の友達が多い。ヘンな意味ではなくてね。「社会人なのに俺たちは、体を犠牲にして無理してでも好きなことをやるんだぜ」っていう連帯感が心地よいのである。
それで2年くらい、ずっとそうやってきたんだけども、日曜の夜ふと耐えきれない眠気に襲われて、それで起きたら朝だった。まだ陽も登っていない早朝だった。
学生の頃みたいに久々に外を走って、意外とまだやれるな、という気づきと、やっぱり体力落ちたな、という気持ちに挟まれながら、気持ちの良い朝を過ごした。
それが心地良くって、今日も早く起きてみた。
よかった、と思っている。
朝にいろいろやることの何が良いかって、新しく芽生えた気持ちと一緒に一日を過ごせるということだと思う。
思ったこと、考えたこと、聞いた音楽、学んだ言葉、それと共に、いつも通りに少しスパイスの香る一日が始まる。
いつもいつも、夜にばっかり感情を爆発させていた。
晴らせなかった気持ち、やりきれなかった予定。人生がひっくり返るような体験だって、寝て起きたら忘れてしまう。
それが私のいいところであり、寂しいところでもある。
夜に聴く音楽は余計に昂ぶる。でも、その感想をこうして書き留めるには余白の時間が足りない。
花火は夜に上げられるけれど、芽生えは朝日でしか得られないものだ。
ほとんどの素晴らしい体験は、感情の爆発という一瞬の興奮のために消費されてしまったような気がする。そして翌朝、また私はいつも通り生きてゆくのだ。
いつも通り、私は私のままで生きてきたと思っていたのに、いつの間にか、ゆっくり変わってしまったことに気が付いた。
それが今日のこと。
しぐれうい先生の『あいしてやまない』という曲を聴いた。最近YouTubeのおすすめに上がってきていて、気になっていた曲だ。
私はいつも、新しい曲を聴くときに「純粋な気持ちで聞くぞ」という心の準備が必要だから、なかなか一歩が踏み出せない。
でも今日はなんだか行ける気がして、クリックしてみた。
数分後、私は泣いていた。どうしてだろう。私はいまApex Legendsという戦場にいるのに。画面がよく見えない。
涙をふく、というエモートをしている間に私は死んでしまった。そんなことはどうでもよかった。
『あいしてやまない』は、2024年にリリースされた曲で、つい最近MV化された作品だ。
イラストレーターを夢見た主人公が、泣く泣く夢をあきらめることになり、社会人になるために歩み出す。どんな君も、私はずっと応援している────といったMVになっている。
あまりにも、自分に刺さりすぎる。私はこういう作品に自分を重ねては何かを思い出して、心が奪われてしまう。
夢破れた、といっては本当に夢を死ぬ気で追いかけた人には甘ったれた表現だけれど、私は一つの夢を諦めたことを思い出す。
自分なりには本当に、命がけでやったつもりだった。それでも、気付いたら追いかけているのは夢ではなくって、現実的な目標だった。
そうやって、大きな目標を達成した。私は満足だった。満足だったはず。
それなのに、どうしてもう何年も、それに囚われているんだろう。私は本当に、夢を叶えたんだろうか。
それは、わからない。達成した大きな目標を夢に置きかえて、自分を納得させただけなのかもしれない。
それでも私は、大丈夫だと言い張って、今を生きている。
童心にかえる、という表現が正しいのかはわからないけれど、私は純粋に自分のことを見つめ直そうとしたときに、童心という言葉が思い浮かぶ。
こういうのは、自分でいくら頑張ったところで昔のようには戻れない。変わりたい、という気持ちはいつだって前に進んでしまうから。次の自分をまとってしまうから。
でも誰かの純粋な気持ち、それこそ、この楽曲みたいなメッセージは、もはや自分自身になってしまった社会性の殻までも溶かしてくれる。
思い出してしまった、久々に。無理に仕事になじもうとして、自分を押し殺すことと葛藤していたあの頃の気持ちを新鮮に。
扱いきれないほどの熱い気持ちを、空に閉じ込めて冷ましてしまうことを、悪いことだとは思わない。
喉から手が出るほど切望する気持ちが、常に日常とともに鎮座している人生は、あまりにも生きづらいから。
けれども、その恋焦がれる気持ちは病熱のようであって、それに支配されているという人生もまた、愛おしいものなのだ。
何かにとり憑かれたように生きるのは、あまりにも苦くほろりと甘い。心のどこかで、人生はそうあるべきだと、平穏では面白みがないと、地鳴りのように絶えず叫んでいる自分がいる。
それと向き合うことを、背中を押されたことで、少し思い出した。
今の私はどこへ向かっているのだろう。
なんとなく、最近は幸せになってきたと思っていた。
仕事が楽しいかもしれないと思い始めて、社会的に評価されることが分かって、自分はどの型があっているのだろうと模索し始めていた。
他人に評価されること事が是であると思った。徒労に終わるかもしれない夢よりも、堅実なビジネスを。
他人にひと夏の夢を売るような仕事よりも、着実に未来を見据えて自分の身を固められるようなスキルを。
どっちがいいということはない。けれど、自分はこちら側に来てしまったし、こちら側が良いと思ったから来ただけだ。
一か八かで勝ち取れる名誉が水物だと知ったから、夢のある仕事が実は大変だってことを感じたから、どんな仕事でも幸せに感じている人がいると学んだから。
あらゆることに挑戦している最近の自分は、割と良いかな、なんて思っていたけれど、大事なことを思い出さないように必死に逃げているような気もしてきた。
それが大事かなんて、知らないんだけれども。
でも、せっかく思い出してしまったのだから、タマゴの中から久々に出てきたしまった自我の言い分も、ちょっとくらい聞いてやらないといけないと思っている。
今日何かを思い立ったところで、明日に人生が変わるわけではないことくらい知っている。
どんな壮大な夢だって、追いかけるための道のりはあまりにも長くて、時には絶対に違うとまで思いこむ日だってあると知っている。
だけど、幸いなことに私は今日という晴れやかな朝に、こんな自分に出会うことができた。
ぐっすり眠ってまた引っ込んでしまう前に、この気持ちとともに一日を過ごせることを嬉しく思う。
こんな私のそばにもきっと、応援してくれている人がいる。